京都サンガーツェーゲン金沢、見ました。セットプレー、ひどいですね…。いや、何とも言えない。流れの中でも、相手の水永、清原などの選手にやられていましたし(清水ががんばっていましたが)、茂木ですか?仙台から来てる選手?3回くらい大きな仕事をしかけてたので、よく粘ったなぁ、といいたいです。粘りの勝ち点1を分け合った、そういう感じですか。
京都の選手はいい仕事をしていましたし、チームは機能はしていたのですが、相手の守備の粘りが、それを上回っていたか、そういう感じでした。
さて、約束通り、記事をアップします。スペインの名監督、デル・ボスケのことです。
スペインといえばまずグアルディオラ、ルイス・エンリケ、ベニテス、僕の好きだったイルレタ(元デポルティボ・ラ・コルーニャ監督?)など、名監督の宝庫ですが、デル・ボスケという人は、とても面白い人だなぁ、そう思いました。
以下は、まぁ、『評伝 デル・ボスケ』(ルーカ・カイオーリ 著、 タカ大丸 訳 プレジデント 2014.6)の読書感想文のような、他愛のないものです。気楽に読んでください。
あまり知っていない人のために、デル・ボスケのことを紹介しておくと、デル・ボスケ、という人は、もともとはレアル・マドリ—の選手だった人です。プレーヤーとして11年間、そしてコーチを含め、カンテラ(ユース)のコーチ、監督、ディレクターとして36年間をレアル・マドリ—に人生をささげた人です。
選手としてはDHを務め、動きは遅かったが、頭の回転と、判断力の速さには、同僚の選手の折り紙がついていたようです。レアル・マドリ—で11年間トップチームの選手というと、いわば一種のスターだったと思うのですが、引退後、ユースのコーチとして選手を育てていきます。
そしてついにカンテラの監督(ディレクター?)から、レアル・マドリ—の監督となり、ラウル、モリエンテス、イエロ、グティ、などなどの選手とともにCLやリーガを制覇します。当時のレアル・マドリ—にはフィーゴ、ジダン、ロナウド(ブラジル)などものちに在籍し、銀河系軍団?と呼ばれたともいわれます。
しかしのちに解任、トルコでの監督業を経て、ルイス・アラゴネスが勇退した後のスペイン代表の監督となります。
そして南アフリカでのW杯で優勝、オシム監督をして、スペインが世界のモデル・模範だ、と言わしめました。また2年後のユーロでも優勝したものの、ブラジルでのW杯では、あまり実績を残せませんでした。
評伝はプレジデント社という、かなり硬派な出版社から出ているだけあって、スペインのそうそうたるメンバーがコメント・インタビューを贈っています。またこの本はスペインがブラジルに臨むはるか前に書かれているだけあって(原著は2011年刊)、ブラジルW杯や、そのあとのこと、ましてや2012年のユーロのこともわずかしか書かれていません。そのことを踏まえて、読みました。
でも、デル・ボスケ、というのはとてもいい監督ですね。僕は、デル・ボスケが率いたレアル・マドリ—が好きでした。まぁ、あまり特定の好きなチームを持たないほうなのですが、いいチームだったと思います。もちろんそのあとの各監督の率いたレアル・マドリ—が嫌いだったわけではありませんが。
さて、長々とデル・ボスケの履歴を書いてきたわけですが、僕がとても興味を持ったことがあります。それは、『デル・ボスケがユースのコーチ・ディレクターをしていた。そして、のちに監督になった』ということです。しかも、自分の所属したチームに、監督として戻ってきたことになる。
なぜ、そのようなことを書くか?それは、ユースのコーチ、ディレクター、というものがうまく機能すれば、強いチームはできるのではないか、そういう夢を見させてもらったからですが、よくわかってもらえません?
レアル・マドリードは36年間、デル・ボスケ、という優秀な人材を、クラブで機能させることができた。何年、ユースの関係者として仕事をデル・ボスケがしていたのかは知りませんが、ひたすら地方を行脚し、いい選手をスカウトし、各ディビジョンの新聞に目を通しては自分の育てた選手が活躍していたかを心配する。そういう、温かい人であった、そうこの本は書いています。そういう人物が、縁の下の力持ちとしてチームにいると、いい選手をトップに送ってくれると、どれだけ心強いか。
デル・ボスケがいたから、レアル・マドリードは強かった、と書くと、書きすぎなのでしょうね。
しかし、デル・ボスケは同書で言っています。
「私はいつも『教育しようと努める』と言っている。全く別の人間をそんな簡単に教育して変えられるものではない。だが、私としては少年たちに可能な限りクラブの意義、レアル・マドリードの選手として知っておくべきこと、たとえば周囲に敬意を持つこと、最後まで戦うこと、スピリットを失わないこと、努力し続けることなどを最大限に伝えようとした。それが、よきフットボーラー、よきスポーツマンたることにつながるからだ」(P.236)
「選手たちの保護者にも、最大限のサービスを提供した。何事も根本にあるのは家族だからだ。選手たちのためにも、保護者たちと密接な関係を築く必要があった。我々にできることもあるが、一番大切なのは家庭における指導だ」(P.236)
デル・ボスケは教育者だったのです。いい選手を生み出すのには、人格がいりますが、そのような素晴らしい人材をデル・ボスケは次々にスペイン中に送り出していきます、それは、フットボールを愛していたからです。それはレアル・マドリ—の元同僚だった、カルロス・アロンソ・ゴンザレス、‘サンティジャーナ’が引く、サンチアゴ・ベルナベウの次のような言葉を知っていたからかもしれません。
「『謙虚になれ、地に足をつけて生きろ。フットボール界では今日が真っ白でも明日が暗黒であることも少なくない』」(P.27)
それでも、デル・ボスケは説きます。
「・・・中にはフットボールを通じて悪い経験をした人もいるのだろう。だが、それは誰にでもありうることだ。問題は人のほうにあるのであり、フットボールそのものに罪はない。フットボールは偉大だ」(P.242)
(フットボールとは、との問いに)
「私の全てだ。教育であり、楽しみであり、職業であり、経済的安定や喜びなど、全てを与えてくれたものだ」(P.244)
フットボールとは教育である。人を育てること、楽しむこと、喜ぶこと・・・。そういうものだと、デル・ボスケは強く信じているのです・・・。
さて、話は少し飛びますが、興味をお持ちの方は、このあともう少しお付き合いください。
レシャック、という人物をご存知の方は、何人おられるでしょうか?1998年、今は無き、横浜フリューゲルスの監督をされた、カルロス・レシャックです。彼はバルサではクライフと一緒にプレーし、のちにバルサのマシア(カンテラ・ユース)に深くかかわりを持った人物です
彼がメッシをバルサに入団させた時の話などは有名ですが、今はもうこの文章にたくさん盛りすぎなくらいなので置きます。
レアル・マドリ—のデル・ボスケについてこれまでは見てきましたが、バルサのレシャックと並べてみると、『ユースのディレクター』というものが、どういう仕事をしているか、ちょっと引っかかりませんか?
今となっては、レアル・マドリ—とバルサやビルバオは、全く対照的なチームのように見えますが、スペインのカンテラは根っ子でつながっているのではないか?スペインの育成能力は、世界でもトップクラスではないか?そう思うのです。
そしてその理由にはデル・ボスケ(レアル・マドリ—)や、レシャック(バルサ)や、イルレタ(ビルバオ)のような強力かつ優秀なディレクターが、選手を発掘し、クラブの哲学をたたき込み、愛し、育て、教育したり、しているからではないかと思うのです。
各地から選手を発掘してくる作業は、スペイン代表の創り方とも共通します。代表のシステムというのは、スカウト(発掘)と、教育、そして哲学を埋め込んでチームワークを創ることに他ならないからです。
デル・ボスケが成功したのには、ユース時代にスカウトで訪れた各地の監督やコーチたちのネットワークが役に立ったのは間違いないでしょうし、そういうユース・ディレクターが『フットボールは偉大だ』という信念のもとに根っ子でつながっているからこそ、スペイン代表、ラ・ロハは強いのではないでしょうか。
あまり、効果的な提言ではないですね、これは読書感想文です。
しかしこの本は、スペイン各地のフットボール関係者の声なき声、つぶやきが聞こえてきそうな本でした。
クラブのユース(カンテラ)の方向性に、20年とか、30年の単位で関わるディレクターがいる。それがスペインクラブの戦術の統一性と関わっているのかもしれません。
高校なら日本ででもあるのでしょうが、ユースではどうなのでしょうか?日本代表は各カテゴリーで方向性を持っているのでしょうか?
そんなことを考えさせられた、一冊でした。
このようなつぶやき、ささやかな読書感想文に最後まで付き合ってくださって、ありがとうございました。
感謝します。